札幌軟石の歴史
北海道の現代的な開拓が始まったのが明治初期の1870年ごろ。
明治維新と共に「日本の文明開花」「ロシアからの防衛」などから「北海道の開拓」が必要となり、次々と外国人指導者が北海道に招かれ、現地調査や技術指導、新しい学問と人材の育成が、未開ともいえる土地で一度に着手されました。
その為、北海道の歴史的建築物の中にはどこか異国情緒漂う様式が多く、それも、今までのオランダ外交によるヨーロッパ風文化との交流とは異なり、クラーク、ケプロンなどのアメリカ人指導者の下、アメリカの様式、技術が導入された為、更に新鮮な風景を作り出して行きました。
また、この建築の際に当時多用されたのが「札幌軟石」です。
「札幌軟石」は、1873年(明治6年)まさに北海道開拓のこの時、発見されました。
西郷隆盛の使者として坂本竜馬と会い、薩長連合を成し、五稜郭では榎本武揚を果敢に攻め且つ部下に配し、その後も強引とも言える手腕で北海道開拓を力強く推し進めた黒田清隆が、当時ホワイトハウス農務局長だったホレス・ケプロンを北海道開拓顧問として日本に招きます。
そのケプロンの北海道上陸に先立ち、地質調査に派遣されたケプロンの部下、トーマス・アンチッセルとエ-・ジ-・ワーフィールドらが、穴の沢(現・石山)にて軟石を発見したのが始まりです。
「支笏湖噴火溶結凝灰岩」と称されるこの「札幌軟石」は、まさに北海道開拓のかなめの石でした。何より札幌近郊にて豊富に産出され、当時「石山通り」といわれた路が今でもその名で残っているほど、馬車等で盛んに搬出・使用されました。
更に「黒御影」など国内から産出される石に比べ、硬度が低く加工しやすい「軟らかい石」であった為、あらゆる建築物に多用されてきました。
普通「石材」というと、高級感漂う大使館や高級官邸、ホテルなどに多く使用される素材ですが、北海道、札幌においては「郵便局」や商社の「倉庫」、「墓石」「家屋」「玄関」「門」「塀」、ひいては家畜のサイロや物置などにも幅広く使用されてきました。
厳しい寒さと自然条件の中、必然的に火を多用する北海道の生活において、耐火性・耐久性ともに優れた建築材料であった「札幌軟石」は、その後150年経つ現在でも立派に現存しています。
本州には無い「見慣れぬ石」で残された「建築様式」が、横浜・神戸などとも違う北海道独特の異国情緒を感じるのかもしれません。
使用された建築物
札幌資料館
札幌市中央区大通西13丁目
大通り公園の最も奥にある元札幌高等裁判所。
札幌資料館
入口上部の細工。
小樽運河
レンガの他札幌軟石や小樽軟石等、堅牢な倉庫群が並んでいる。